1977年9月1日、テキサス州にあるメスクィート女学院で新入生の入学式が行われていた。
オースティン教頭が女性とは思えない迫力ある美声で「式辞」とアナウンスすると、ダン校長が険しい面持ちで登壇した。
「 新入生諸君! 入学おめでとう。わたしは校長のダンです。今日から諸君はメスクィート女学院の1年生です。4年間、しっかりと勉学に励んでください。(中略)
当校はしつけの厳しいことでも有名です。諸君にとっては辛いこともあるかも知れないが、それを乗り越え、将来は立派な大人に成長するよう期待しております」
例年通りの決まり文句を述べると、ダン校長はスタスタと足早に降壇した。
エドウィン・ダン。彼は1909年5月10日、日露戦争後の講和条約で有名になったニューハンプシャー州ポーツマスに生まれた。
少年時代から極度の内向的気質で秘密を好み、また根っからの社交嫌いだった。そんな性格の彼が何故、教育の仕事に就いたのか?
現在、彼は教職員の間でも評判が良く、教育界からも高く評価されている。教育熱心に加え、赴任したハイスクールの進学率を高めてきたことで数々の実績を積み重ねてきたからである。しかし、実のところ彼には隠された重度の性癖があった。
それは、教育やしつけという大義名分のもとに女生徒の尻をたたいてお仕置きをすることだった。
彼の少年時代といえば、クラスルームにおいて男子生徒の眼前で女生徒が尻を打たれるなど日常茶飯事だった。また当時の親たちは子供のしつけにはきわめて厳しく、学校で自分の子供が罰を受けたところで抗議する親など皆無であった。そんな時代背景でエロチックなシーンを数多く目撃してきた彼は、いつしか自分が教壇に立って女生徒をお仕置きしたいと夢見るようになったのである。彼の性癖はこの学業中に形成されたといってよい。
当時は大人と子供というふたつのポジションしか存在しなかった。すなわち未成年者は子供と見なされ、肉体的に成熟していても子供扱いだった。
彼にとって年頃の女生徒を折檻することは大きな夢であり、目標であり、そして教師を目指す最たる理由となった。
かくて念願の教員免許を取得した彼は、故郷のポーツマスから保守派の多いテキサス州に舞台を移すべく転住したが、時代は大きく変わっていった。ベトナムの反戦気運が高まる中、社会に若者というポジションが新たに台頭した。若者たちは革命戦士、チェ・ゲバラの肖像画を掲げ、彼のTシャツまで作ってデモに参加した。また学校でも自由と民主化が叫ばれ、体罰は古くさい過去の因習と捉える革新派が急速に増えていったのである。
各州によって差はあるものの、担任教師が生徒を直接罰したり、尻を裸にしてたたいたり、鞭打ったりする行為はいつしか厳禁とされ、校長室において校長の手によって罰が下されるというスタイルが定石となっていった。そこでダンは社会環境の変化に馴染むべく猛勉強を重ねた。その結果、彼は現在のポジションを獲得したのである。言わば性癖によって今のポジションに辿り着いたといってもよい。
ジェーン・オースティン。彼女は一体、どんな女性なのか?
まだ40代でありながら教頭まで上り詰めたのには、わけがあった。
彼女はダンの性癖を理解し、ひたすら彼を満足させるために力を注いだ。例えば、校長室に彼の好みの女生徒を引っ張り込むための口実を作ったり、自ら女生徒を罰し、彼に観賞させたりした。校長室にはパドルなど多くの折檻道具が壁に吊るされているが、これらは施錠されていて校長と教頭しか取り外しができなかった。さて、その道具を取り外すと壁に覗き穴があり、隣の部屋から垣間見れるように仕掛けが施されていたのである。隣の部屋は校長のプライベートルームとなっており、すべての教職員は立入禁止だった。ダンは自ら罰を下すだけでなく、とりわけ女性が美少女を打つというF/fの観賞趣味もあった。それゆえ、この校長室を取り巻く環境設計を提唱したのも彼女だった。
さらにこの変態校長は女生徒の制服にも興味があった。「若者の流行を尊重して」を名目に当時流行のミニスカートを採用し、春と夏には白のニーソックスと白の革靴、秋と冬には黒のニーソックスと黒の革靴を採用した。ソックスと靴の色を合わせることで視覚的に脚が長く見えるからである。彼は脚の長い美少女が好みだった。しかし、これらは男の立場でなかなか提案できるものではない。そこで女性の教頭に頼んで自分の好みに揃えてもらったのである。このように自分の性癖を満たすため、彼女には多くの無用な負担を強いていた。
さて、それでは見返りは一体何か?
それは最高の勤務評価と根回しによる昇進だった。当時、アメリカの教職員や公務員では情実任用が横行しており、採用はもちろん、とりわけ昇進については不条理ともいえるほどカネとコネに物を言わせていた。ダンの場合、性癖を満足させてもらう見返りとして最高の評価と秘密ルートを通じて入手した役職試験の「問題と解答」を彼女に事前提供していたのである。そうすることで昇進と昇給の手助けをしていたのだ。更に月額600ドルの報酬も与えていた。彼女はこれらを無用な負担を遥かに凌ぐ還元と捉えていたのである。
彼らの特異な関係については、教育委員会や保護者はもとより教職員の間でも知る者はいなかった。
ふたりは常に眉間にしわを寄せ、厳しい面持ちをして構内を歩いていた。そして、周囲を緊張させるほどの尊厳とオーラを全身から発散させていた。そこにはふたりの特異な関係など知る由もなかった。
しかし、一歩校長室に足を踏み入れれば、その中で行われるふたりの重要な会議とは、女生徒のお仕置き談義ばかりだったのである。
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